わたしは「合理主義者」である。
合理主義者というと、血も涙もない冷徹でシステマティックな人間を想像するかもしれないけれど、そういう”一見合理的に見える人”というのは、実は合理主義者ではないのだ。
真の合理主義は、必ず”一見合理的でないようなもの”を含んでいる。
なぜかというと、私達が合理的であると通常思っていることのかなりの部分は実は合理的ではないからだ。
たとえば、それは、合理的に水を流すためのコンクリートで固められた直線的な水路が、実は合理的ではなく、自然のままの川の方が、様々な面において合理的であることとよく似ている。
直線的な水路は、水をA地点からB地点に運ぶことに関しては、極めて合理的に出来る。この部分だけを取り出して、それを合理的だといえば、それは合理的である。
しかし、その他の面では「全く合理的ではない」ということが起きる。
たとえば、自然の川では、微生物つまりバクテリアやプランクトンなどと魚などの捕食者のバランスが保たれ、水質が安定してきれいになり、それが私達の食料になる。という循環が保たれる。
だから、様々な面において合理的なのである。
というか、もっと根本的なことを言えば、私達人間は、自然と相互に関わり合いながら、生き、暮らして来たのである。
そもそも私達の生存のための戦略は、自然を理とし、それに”合う”ために、自らを変えてきたものだ。
そう考えれば、自然に沿うということこそ、つまり合理的なはずである。
一方で、この仕組みが、コンクリートで固められた直線的な水路では保つことが出来ない。
だから、様々な問題が生じるのだろう。
洪水ですら、我々にとって不可欠なものである。
なぜなら、私達の多くが住んでいる沖積平野は、川で作られた栄養分が洪水によってあたり一帯に撒かれたために肥沃な平野が出現し、その平野が作物の生育に非常に適していたがために、私達がそこに移り住んだものだからだ。
ようするに、私達は、洪水を前提条件として、そこに移り住んだのだ。
だから、合理的に考えるならば、洪水は本来、私達の生活に『なくてはならないもの』であるはずだ。
『なくてはならないもの』を前提としたデザインを組み立てる。
これが合理主義なのではないだろうか?
結果が良かったものこそが合理的である。
しかし、その『結果が良かったもの』さえ、現実には、時間が経過するにつれ、結果を悪くすることになる。
それこそが『合理的』だ。
と、すれば、合理的な選択は、その状況状況で違うはずだ。
これが、合理主義者の世界観となるだろう。